千駄ヶ谷ノート40年  (自家版・棋界現代史/八段:田丸 昇) 20041117週間将棋より

第58回 プロ・アマ平手戦対局の変遷

以前は平手戦タブーが今は公式戦で対戦。 プロアマの関係は対決から交流の時代に!

草創期の順位戦にアマ参加

戦後まもない昭和21年。
新時代の象徴のようなランキング制の順位戦が創設された。
その草創期において、アマ名人戦で活躍した選手たちが順位戦に1期だけ特別参加することができた。
第3期順位戦には三好幸男、第4期には高橋誠司、大前吉章、第5期には加納和夫、内山龍馬、宮本茂
ら計6人のアマが参加した。
この中で高橋が4勝3敗、加納が7勝5敗と勝ち越した。
成績によっては棋士になれる道も開かれたそうで、現代では夢のような話である。
これにはプロ側のある事情が背景となった。
当時の将棋連盟は、棋戦が少ないうえに新聞社との契約金が低額で、経営はかなり苦しかったという。
そこで順位戦にアマを入れて増員し、契約金増額要求の根拠にしたようだ。
昭和30年代には読売新聞社が主催した九段戦(竜王戦の前々身棋戦)にアマが特別参加することができた。
皮切りの昭和33年の第9期には、坪井定一、平畑善介、若林久雄、舟山正夫、木村義徳ら計8人の
歴代アマ名人が参加した。
中でも注目のアマは23歳の木村で、同世代の芹沢博文四段と対戦した。
そのころ将来の名人候補として嘱望されていた芹沢に対して、木村は大奮闘して勝勢となったが、寄せを
誤って借敗した。
芹沢は局後、「こんな強い素人がいるとは驚いた」と語った。
なお木村は翌年に奨励会に入って棋士となり、現在九段。

第1図は芹沢-木村戦。▲67金まで



ここで歩頭に打つ△47銀が攻めの強手。▲同歩△同歩成でと金を作り、木村有利となった。

プロ棋士キラーの小池重明

昭和37年に九段戦に替わって十段戦が創設されると、アマ参加制度は廃止された。
それからおよそ15年、公のプロアマ平手戦は姿を消し、平手の手合いで指すのはタブーという空気の
時代になった。
せいぜい将棋雑誌の企画で奨励会員とアマが対戦するぐらいだった。
昭和53年、『将棋世界』誌がプロアマ平手戦対局の企画を初めた。
プロとアマはもっと交流すべきだという当時のS編集長の持論と熱意が、連盟理事会を動かして実現に
こぎつけたものだ。
その平手戦企画では、谷川浩司四段、田中寅彦四段、小林健二四段ら若手棋士と、元アマ名人など
が対戦し、1年目はプロの全勝に終わった。
しかし次の年、あの小池重明が飯野健二四段を破ってアマ初勝利をもたらした。
その後、他の将棋雑誌でもプロアマ平手戦対局は行われるようになり、アマが勝つことも珍しくなくなった。
昭和57年には『将棋ジャーナル』誌でA級棋士の森難二八段と小池の平手戦が行われ、小池が大激戦
を制して勝った。

第2図は森-小池戦。△15歩まで



ここで▲33角が寄せの好手。
△同銀は▲15飛と出て寄り筋となる。
実戦は△21玉▲24角成△16歩▲13桂打△31玉▲43桂(第3図)は▲43桂まで、と進んで終局。

第3図、▲43桂まで(※後手投了)



△同香は▲42銀△22玉▲33桂成△11玉▲12歩△同玉▲22馬以下の詰みだ。

昭和55年・56年のアマ名人戦で優勝した小池は、アマ界でカリスマ的な強さがあった。
森戦の勝利でプロ棋士キラーとして更に名を馳せたが、それは棋界を揺さぶるような事態にまで発展した。
かねてから小池の面倒を見ていたある高段棋士が、小池を特別にプロ入りさせる議題を連盟総会に
提出したのだ。
戦前にはアマ時代の花村元司九段が付け出し五段で棋士になった先例があった。
しかし当時とは事情があまりにも違い、この一件は総会で賛同を得られなかった。

本紙で小林庸俊がプロ4連破

『週刊将棋』もプロアマ平手戦をかって企画したことがあった。
まずプロ四段と対戦し、アマが勝つたびに相手棋士の順位が上がっていくシステムだ。

第4図は羽生善治四段-田中保(元アマ名人)戦。▲18玉まで



中盤では田中が有利だっが、羽生が終盤で追い込んだ。
ここで△37角が鮮やかな決め手。▲同桂は△38飛成▲同銀△17銀以下詰み。
羽生は
「今まで将棋を指して、状況にかかわらずプレッシャーを感じたことがありません。
プロアマ戦も普段どおりに指すだけです。」
と、対局前に語ったという。

昭和61年には、千葉大学の学生で朝日アマ名人の小林庸俊が、中田功四段、富岡英作五段、島朗六段
を3連破し、次に私こと田丸七段と対戦した。
当時の私は36歳の指し盛り。
B級1組順位戦では好成績を挙げて昇級候補の1人だった。
ストッパーとしての責任感は感じたが、負けるわけがないと思った。

第5図は田丸-小林戦。△45角まで



角換わり腰掛け銀の戦型から攻め合いとなり、小林の△45角の好手で私が不利に陥った。
私はここで▲43成桂△同金引▲78銀と守って必死に粘った。
その甲斐あって一時は逆転したが、ミスを重ねて小林に敗れた。
平常心で指したつもりだったが、二歩になる手を読んだり王手飛車を食ったりして、かなり冷静を欠いていた。

私はアマに負けたショックはあまりなかった。
小林はプロでも通用するほどの素質と実力があると思ったからだ。

しかし後日、ある写真誌に掲載された終局後の光景を見たときには情けない思いをした。
勝者の小林が泰然と正面に写っているのに対し、敗者の私は背を向けて情然とうつむいている姿である。

小林のプロ4連破はマスコミを動かすほどの大きな話題となった。

昭和62年1月下旬にA級棋士の南芳一八段と対戦したときは、対局場に新聞・週刊誌・テレビ各社が
こぞって取材に来るほどの加熱ぶりだった。
もし小林が勝ったら、次の相手は九段かそれとも中原誠名人か…。
周囲はそんな話で持ち切りとなった。
観戦記を担当した河口俊彦六段はその騒ぎを・・・・
「鎖国状態の将棋連盟に、黒船がやって来たようなもんだ」と例えた。

第6図は南-小林戦。△76歩まで。

相矢倉の戦型から激闘が展開された。



ここで小林は▲76同金と応じたが、△82飛▲83歩△67銀(次に△68歩)と食いつかれて苦しくなった。
局後の検討では△76歩に▲67金とかわし、△77金▲75角△22玉▲57金と受ければ、先手玉は
なかなか寄らなかったという。
この「世紀の一戦」は南が勝った。
結果次第では小林のプロ入り間題も取り沙汰されたが、ひとまず治まった。

近年は認め合う良好な関係に

昭和62年に大型棋戦の竜王戦が創設されると、アマ竜王戦の優勝者などアマ4人が特別参加できる制度に
なった。
第1期には古賀一郎(元アマ名人)が村山聖四段に勝って同棋戦でアマ初勝利を挙げた。
第4期には天野高志がプロを3連破した。
その後、棋王戦・朝日オープン選手権・新人王戦・銀河戦などアマが参加できるプロ公式戦は増えていった。
平成12年の朝日棋戦では山田敦幹(元朝日アマ名人)が大内延介九段、屋敷伸之七段らタイトル経験者に
初めて勝ち、平成14年の同棋戦ではプロアマ一斉対局でアマが7勝3敗と勝ち越し、それぞれ大きな話題に
なった。

以前のプロアマ平手戦では、、、、、
プロには「負けたら恥で坊主頭もの」という緊張感、アマには「積年の悔しさを晴らす」
という怨念めいたものがあった。

しかし近年、プロはアマの実力向上を称え、アマは良い舞台でプロと指せることに喜びを感じるなど、
対決ムードから認め合って交流する良好な関係に変わってきた。
ネット上ではプロアマ戦とわかる将棋をよく見かけるという。

〈文中の各アマ選手の敬称は略。棋士の肩書きはいずれも当時〉

◆次回は「連盟会長7期14年の大山が退任」